若狭の山と峠 36 鉢伏山

 古くから峠というものは、様々な歴史をつくり、また人生が展開されている。鉢伏山の肩に位置する木ノ芽峠も、様々な人物の往来があったとされる。木ノ芽峠に道が整備されたのは、天長年間に、越前の百姓である上毛陸奥公によってであるとされている。それ以降、建長2年(1250)に曹洞宗改祖道元禅師が病をえて、上洛の折に弟子の徹通と惜別した所であり、また戦争の舞台としては、元亀元年(1570)に朝倉義景、また天正11年(1583)には豊臣秀吉がこの峠を越えたとされる。さらに近代では、明治天皇が北陸東海巡幸の際、小休息をとられている。 
 作家の丹羽文雄氏は『親鸞」の中で、木ノ芽峠を次のように描写している.「・・・親鸞を乗せた船は、対岸の長浜に着いた。上陸して、中之郷を経て、木ノ芽峠を越えるのだった。峠は難路として知られていた。・・・」この当時、親鸞は肉食妻帯の破戒僧として越後に流されることになったのだが、この峠にさしかかる途中で妻を失った親鸞は、この地をどのような思いで歩いたのであろうか。どちらかといえば、悲しい出来事が印象的な峠を持つ鉢伏山といえよう。


コース紹介

①新保から鉢伏山ヘ      ■対象:家族向けハイキングコース
 敦賀市内から、国道476号線を北に進み、北陸自動車道の下を4回通る。この道路は旧国鉄の跡地であるため、レンガ造りの暗くて細い卜ンネルを新保まで2回通ることになる。集落に入らずに約6OOm進むとT字路があり、その手前で駐車すると良い。 
 なお、JR敦賀駅から新保までコミュニティーバスが通っており、バス利用の場合、新保集落の中の道を進む。
 コンクリー卜の道をしばらく登り、左手に小川のせせらぎを聞きながら進むと、やがて土の道になる。20分程で、苔むした大きな露岩が正面に見えてくる。これは若越八十八ヵ所第十二番札所であって、ひと休みをするのに良い場所である。
 谷は次第に狭くなるが道はしっかりしている。さらに20分ばかり登ると、たまり水にかやで被いのしてある所に出る。明治天皇が小休息され、この水で顔を洗ったり、乾いた咽を潤された場所とされている。しばらくすると石畳が見え、かや葺きの大きな家が見えてくる。ここが嶺南と嶺北の境とされている木ノ芽峠であり、峠の茶屋である。
 この峠は平安時代以降、経済や戦略上の要衝として重要な位置を占めるようになったが、柴田勝家が栃ノ木峠を開発してからは、やや衰えたと言われている。往時は茶屋が数軒あったとされるが今は前川永運氏の家が一軒あるだけである。この方は平家の子孫だということであり、またこの家には秀吉が使用したとされる茶釜が残っている。家の前には道元禅師の石碑も建っている。
 合掌をして、左側にある「鉢伏城祉跡」の木の看板に従い少し登ると、今庄365スキー場に交わる。広々とした山頂のポールには「モスクワ」「ハバロフスク」「東京」のkmが記され、国際的な感じである。頂上に立つと、まず最初敦賀の青い海が目に飛び込んでくる。そして眼前には西方ヶ岳と蠑螺ヶ岳が兄弟のように肩を並べ、西に目を移せば野坂岳の懐に抱かれた敦賀の街が一望できる。海に細長く横たわる常神半島、そしてその向こうには、小浜の久須夜ヶ岳が三角形の容姿を海から突き出したように聳え立っているのも、はっきりと見える。
 帰路は木ノ芽峠まで戻り、往路とは反対方向にある「言奈地蔵」に立ち寄ってこよう。峠から約1O分の距離にあるこのお地蔵さんには次のような伝説が残っている。昔、馬子の権六という男が、一人の旅人を、このお地蔵さんの前で殺した。権六は、お地蔵さんが気になり、「言うなよ」と言って、その場を逃げた。その後、偶然にも木ノ芽峠で、殺した旅人の息子に出会い、その因縁におののき、自ら仇を討たれたというのである。このお地蔵さんが奉納されている、かや葺き小屋の前で腰を下ろし、今庄方面を眺めるのも心休まる時である。さて、ここからは長い林道を通って、今庄ヘ下って行くこともできるが、往路を引き返すこととする。

■コースタイム
 新保→20分(15分)→第十二番札所→20分(15分)→木の芽峠→20分(15分)→鉢伏山山頂 (木の芽峠から言奈地蔵往復20分)
  (  )内は、逆コースのコースタイム

地図